文化というのはどこか遠い世界の話ではない。
論文や研究の中だけの話でも、美術館や博物館にしかないものでもない。
目の前に広がっていること・ごく身近に転がっていることが文化なのだ。
つまりその国の文化を知るためには、
自分の五感で目の前の世界を直接味わうのが一番早いということである。
(もちろん論文を読んだり、美術館に赴いたりするのも文化である)
一番分かりやすいのが人と触れ合うことだ。
例えば、「アメリカの接客業はやる気がない」というのはネット情報だ。
三次情報だが四次情報だがの情報であり、信憑性はない。
全ての語尾に「〜だそうだ」「〜みたい」とついてしまうからだ。
これに対して、全てに対して実際に「〜だった」と言えるようになるためには
実際に自分の身でアメリカの接客業に携わる人とサシで関わる必要がある。
私の場合だと、
ミシシッピに移ってから運転免許の公的手続きをするために
ミシシッピ州の役所(日本でいうところの県庁)に電話をかけたことがある。
正直に申し上げて私は「電話をする」という行為自体が嫌いなのだが、
問い合わせ手段が電話しかなかった(=メールフォームなどなかった)のだから仕方ない。
この時点で私は嫌な予感がしていた。
ただでさえアメリカの田舎、その上お役所仕事となれば
一体どのレベルの人が出てくるのだろうとある種ワクワクしていたのだが、
私の想像は開始1分であっさりと超えられた。
まず「○○に御用のある方は○番を…」という自動音声が流れるのだが、
その音声が小さすぎて聞き取るのにやたら苦労した。
スピーカーにして音量をマックスにしてスマホを耳元に近づけて、
ようやくなんとかなるのではないかというレベルだった。
そしてコール音が流れ、当然の如く4〜5コール待たされてから
私はミシシッピ訛りというものがどういうものかを味わうことになる。
アクセントやイントネーションが一切ない。
それでいて声が低くてとどめに早口なのだ。
英語教材や英語学校の易しい英語に慣れきっていた私はそこで度肝を抜かれた。
あまり大きな声では言えないが、
「この人、これで本当にネイティブか?」
と思わず感じてしまったぐらいだ。
(ミシシッピ州の役所に外国人が勤めるわけがないからほぼ確実にネイティブだが)
なんとか頑張って
「Could you say that again?」
などと言ってみても、繰り返されたその英語がまた全く聞き取れない。
そうこうしているうちだった。
突然ガチャッと電話を切られたのである。
向こうからしたらコミュニケーションが成立していない訳だから
「よく分からないイタズラ電話か」と思われたのかもしれないが、
そんなことはこちらにとってはどうでもいい。
確かにこちらも拙い英語だったが、それにしてもである。
ガチャッ!とどでかい音がした時には思考が止まった。
何が起こったのかを理解するのにさえ少し時間を要した。
そして何回か再挑戦してかけてみたが、今度はそもそも繋がらない。
別に大都会・大混雑でもあるまいのに、自動音声の段階で5分〜10分も平気で待たされた。
そして一向に繋がる気配がない。
ここから私は2つのことを学んだ。
- サービス業とは電話厳禁。絶対に直接対面でやる
- どうしようもない接客態度の人もアメリカにはいて、その次元が日本とは違う
留学2年目に某大手アメリカ系航空会社に電話したときもぞんざいな対応だったから、
こういう人も一定数いるのだなという諦めの気持ちが生じた。
それ以降、私は免許の手続きであったりシャトルバスの予約であったりなど
どうしてもサービス業と関わる必要があるときは必ず現地に赴くようにした。
直接対面なら自然に何度も聞き直す・伝え直すことができるし、最悪スマホで翻訳できる。
このように、現地のサービス業と直接関わってみると
「現地の生活レベル・サービス精神はどれほどのものか」
という一次情報を得られるようになる。
こういう一次情報とは、つまり文化そのものである。
…筆者、透佳(スミカ)
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