Future:「孤立」から「孤独」になった瞬間、全ての流れが変わった。

孤独の留学

「孤立」と「孤独」は違う。

「孤立」は一人にはなりたくなかったのにそうなってしまうことを指すが、

「孤独」は自ら望んで一人という状況を選んだという意味になる。

ここから何が言えるかというと、

自分が「孤立」なのか「孤独」なのは自分で選ぶことができるのだ。

自分が孤立していると思えばそれは孤立だし、孤独だと思えばそれは孤独である。

そして、孤立と孤独というのは実は真逆の概念だ。

孤立している人は

「どうして一人になってしまったんだろう…」

というマイナスの感情を抱きながら、群れることを求める。

だが基本的には負の感情が全面に出ている人と付き合いたいと思う人はいないから

時がたてばたつほどどんどん孤立を深めていく。

これに対して、孤独を選んだ人は

「自分は孤独の状態でこそ一番良い状態を維持できる」

という穏やかな思考・プラス思考を抱きながら、群れることを求めない。

だが一人で輝いている人には魅力があるから、

本人の意に反して周りにはどんどん「この人と付き合いたい」という人が増えていく。

孤立している人はどんどんマイナス思考が強まって、ますます孤立していく。

孤独になっている人はどんどんプラス思考が強まって、ますます孤独になっていく。

孤高と言い換えてもいいだろう。

そして繰り返すが、孤立か孤独かというのは自分で選ぶことができる。

であれば、孤立ではなく孤独を選ばないとソンではないか。

これに私が気付かされたのは、ミシシッピに渡ってしばらくたった頃だった。

渡った当初の私は極めてマイナス思考だった。

「どうして孤立してしまったんだろう…」

「どうして誰も話しかけてくれないんだろう…」

だがこれは今振り返ってみると、言葉がおかしい。

ただでさえマイナスのオーラを強く発する人は、孤立して当たり前である。

そこから抜け出すためには

「話しかけてもらう」という受動的な発想ではなく

「こちらから話しかける」という能動的な発想が必要である。

孤立していた頃の私は、こんな初歩的なことにも気付かなかったのだ。

自分は不幸であり、

「私はこんなに不幸なんです」

とアピールすれば人が寄ってきてくれるものとばかり思っていた。

だが自分がそう思っている限り、他人は決して寄ってこなかった。

そしてミシシッピ留学の後半で私は確信した。

いかにも寂しそうな人と付き合いたい人などいない。

同じぼっちなら、寂しそうでない孤独を目指すべきだと。

孤立ではなく、孤独になる方法なんて簡単だった。

「孤立か孤独かは選ぶことができる」という事実に気が付いただけだ。

その上で孤独になることのメリットは既に語り尽くしてきたつもりだ。

そうして私は「孤独」になることができた。

そうすると、「孤立」の時よりも「孤独」の時の方が付き合いが増えた。

とりわけ孤独のありがたみを知っていて、かつ水のような付き合いを求める人と付き合えるようになった。

そして残りの留学生活をより実りあるものにすることができた。

これだけは断言してもいいが、

どれだけ留学先で孤立しようと、「孤立した」とあなたが思わない限りそれは孤立ではない。

「孤独を選んだ」と思えば一切寂しさを感じないし、それどころか自身がみなぎってくる。

万が一寂しさを感じる暇があるくらいなら、

その時間を使って勉学にでも没頭するのが海外留学である。

 

…筆者、透佳(スミカ)

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