志望校は肩書ではない。それ自体に価値はない。

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「オレ、〇〇高校目指してるんだよね」「オ〜」

周りはお世辞でこう言ってくれるだろうが、「オ〜」と言われることに対して喜びを覚え始めたら非常にまずい状態である。

実際に目標を達成するか・したかどうかではなく、「目標を目指して頑張っているオレかっこいい」という自惚れに走っているから。

【追伸】
もちろんある程度なら自惚れも役に立つ。

「なんだかんだこれだけやってきてるんだな」

というのは現状把握・これからの目標設定に使えるからだ。

だが、これは受験に限った話ではないが

「〇〇を目指している」という事実は別に何の自慢にもならない。

目指すだけなら誰にでもできるからだ。

例えば今この瞬間から、

私が「東大目指してます!」と言うことも可能である。

(実際に何か具体的な努力をするかは別にして)

誰にでも名乗れる肩書きの価値は完全にゼロだ。

「私は人間です」と言っているのと同じである。

だが、例えば「東大生です」というのは誰にでも名乗れることではない。

当たり前だが東大の入試に受かる必要がある。

誰にでも名乗れるわけではない肩書きには価値がある。

これは弁護士や野球選手など、一流の職業全てにも共通する。

さて、志望校の話だった。

友達同士や仲間内で

「オレ、〇〇高校目指しているんだよね」

と言うと、

「お〜」

「すごい」

「頑張ってね」

と周りの人はやさしく言ってくれるだろう。

私が塾講師をやっていて気付かされたのは、

この「お〜」でニヤニヤしながらご満悦してしまう生徒が少なくない

ということだ。

「またまたぁ(笑)」

なんていいながら、満更でもない様子なのだ。

これはかなり大きな声で言いたいが、

何がそんなにめでたいのだろうか。

単に目指しているだけであり、受かった訳では断じてないのに

束の間の優越感に浸ってお腹いっぱいになっているのは相当危ない。

以前にもどこかで書いたかもしれないが、

「満足感」というのは勉学最大の敵だ。

特に受験勉強には常に、

「まだこれができていない」

「まだこれをやってみよう」

というハングリー精神・いわば不満足感が欠かせない。

「こんなもんかな」

と思った瞬間がその人の限界である。

志望校を口にしてお手軽に褒めてもらおうとするのは、

ハングリー精神とは最も遠い行為なのだ。

「〇〇高校目指してます」

という事実はそれ以上でもそれ以下でもなく、

ましてや自慢できるような要素でもない。

(そして卑下する必要もない)

【追伸の追伸】
ここだけの話だけど、

第一志望の学校にするっと合格する人は

必要以上に自分の志望校を周りに言わずに

そのエネルギーを黙って淡々と勉強に向けていた人がとても多いんだ。

そういう人たちは共通してこう思っていた。

「褒められるとかどうでもいいから、今日も確実に学力をつけたい」

 

…筆者、透佳(スミカ)

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