Friend:孤高に生きると、別に孤高に生きる人と巡り会う。

孤独の留学

こうやって孤独のありがたみについて書き連ねているわけだが、

私とて人間関係を100%「断絶」していたわけではない。

留学先にミシシッピを選んだのもご縁があってのことだし、

ミシシッピに渡って以降は絶対数は多くないが一定の出会いがあった。

私が孤独の状態を好むのは、巡り会う人もまた同じく孤独だからだ。

お互いに群がっていないということは何かに対する遠慮や忖度がないから、

一対一で文字通りぶつかり合うような話ができたものだ。

例えば私がミシシッピに留学していた頃にこんなことがあった。

私のブログの「お問い合わせ」から

とある女性がこちらにコンタクトを取って来た。

彼女は当時某旧帝大に在籍していて、今は某東証一部上場企業に勤める才媛だ。

話を聞くと、ミシシッピに一人研究で訪れる機会があり

それで私に現地の情報を求めているということだった。

この時点で彼女が孤独かつ変人であるということに気が付いた私は(失礼!)、

「私にできることなら是非」ということで協力を申し出た。

そうして私は、現地入りした彼女と大学のスタバで語り合った。

その後何度か食事もご一緒させてもらったが、これは貴重な出会いだった。

綺麗事を抜きにして話すと、

私は決して学歴が見栄えするものではないため普通に生きていては旧帝大レベルの人との縁はない。

(旧帝大は旧帝大同士、早慶は早慶同士、MARCHはMARCH同士、それ以下はそれ以下同士、FランはFラン同士で人間関係を築くのがこの世の構造である)

それが孤独でいた、かつ少々辺鄙な場所に留学していたというだけで

こうやって同じく孤独かつ奇特な人と巡り会えたのはまさに僥倖だった。

その他にも同級生、現地の大学教授、現地で働く人など様々な人と会って来たが

孤独(=「誰かと一緒」という理由できたわけではない)な人との出会いはやはり面白かった。

やはり皆どこか変だからだ。

ニューヨークやロサンゼルスに観光がてらちょっと語学留学して

日本人の友達とわいわいするのとは訳が違う。

日本人なんて必死に探してようやくいるかいないかという地域に

好き好んで何年も留学して現地の生活に馴染んでいたり、

挙げ句の果てには(失礼!)そのまま定住しているような人には

群がって行動している人には絶対にないようなブレない芯・バイタリティがあったのだ。

こちらも大いに刺激になったし、

「この人に比べれば私なんてまだまだだな」

というエネルギーをもらったものだ。

出会いは孤独同士だからこそ面白い。

孤独同士だからこそお互いを尊敬することができるし、

会っている時間全てを一対一の話で埋め尽くすことができるからだ。

そして不思議なことに、孤独でいると

自分から出会いを求めて交流会のようなものに参加したり

SNSやネットで友達を募集したりすることがなくなる。

自分が孤独に何かに打ち込んでいる過程で、自然に・勝手に人が寄ってくるのだ。

こういった出会いの方が実りあるものになる。

あなたが輝いているのを察知した、別に孤独に輝いている人が引き寄せられるからだ。

お互いに輝いている状態で出会うと、それが運命の出会いになる。

 

…筆者、透佳(スミカ)

『孤独の留学』特設ページ(目次)はこちらから

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