「切磋琢磨」というのは、無責任な大人の理想論である。

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以前、この世には大きく分けて切磋琢磨で伸びる人と切磋琢磨で萎える人の2種類が存在すると書いた。

だが「学習塾に通う学生」という括りで考えると、そのうち99%は切磋琢磨で萎える。

ここだけの話、「切磋琢磨」という言葉は保護者や先生といった周りの大人が子供を見てうっとりするための言葉である。

【追伸】
これは塾講師として爆弾発言かもしれないけど、

勉強において「周りに合わせる」っていうのは基本全部ムダなんだよね。

「科学的に勉強する」

という類の本や教材・教室・各種サービスが増えてきたけど、

それら全てが異口同音に言っているのは

他の誰かと100%全く同じやり方で伸びる人はいない

ということだ。

もちろん、ある程度の「王道」はある。

英語学習でいえば、

「まずは単語・文法を徹底する」

「発音も初期段階でキチッと習う」

「上の2か条を徹底するまで4技能には手を出さない」

という定石がある。

こういうのは万人共通だと思う。

だがその上でどう感じるか・何が課題になるのかは一人一人バラバラだ。

単語のどこで引っかかるか。

文法のどこで引っかかるか。

発音のどこで引っかかるか。

さらにはそこに「やる気」という超・主観的な指標も加わる。

「やる気がないならないなりにやりなさい」

というのは現時点で一定水準以上勉強ができるからこそ可能な発想であり、

現時点でできない人はやる気がなかったらただやらないのみである。

それら全て、一人一人ごとにバラバラである。

もちろん、

「一人一人全部バラバラなので、一人一人その場で一から全部考えます」

というのでは時間が何百年あっても足りないから、

「こういう傾向のミスが多い」

「ここでつまづく人にはこれがいい」

といったある程度の共通認識を体系化する。

(これがいわゆる帰納法でもあるが)

「一人一人全部バラバラなので、一人一人のために別々に学校を作ります」

というわけにはいかないから、

便宜上学校という場所を作って

「過半数にとっての答え」をそこで教える。

それでも、

誰一人として全く同じ人生がないように

「一人一人ごとに勉強の道は違う」

というのは揺るがない。

私に言わせれば、切磋琢磨というのは上記全てを無視して

「周りのみんなと競争すればやる気が上がるだろ!」

とかやっている大人のエゴである。

昭和どころか戦前・戦時中レベルの価値観かもしれない。

もちろん、

「あの子には負けないぞ!」

というのをやる気に変えられる子も存在する。

でもその子にしても、

その「あの子」と全く同じ練習をしていたら「あの子」に一生勝てない。

そこで練習方法を工夫したり、量を増やしたりする。

それはつまり、

全く同じ方法は一つもない

ということに他ならないのではなかろうか。

偏差値という制度がある以上、最終的に比べられることになるのは当たり前だ。

だがここで私が言いたいのは、

他人と比べることでできるのは相対的な現状把握のみである

ということだ。

それ以上でもそれ以下でもない。

 

…筆者、透佳(スミカ)

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