異文化交流で壁となるのは、「お互いの前提」。

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例えば日本語は「聴き手が察する」言語であり、英語は「話し手がちゃんと言う」言語である。

なぜこうなるかといえば、話す人同士の共通文化・共有された前提が濃いか薄いか(または存在しないか)の違いがあるからだ。

換言すれば、日本語での「このくらい言わなくても分かるでしょ」が一切通用しないのが日本人学習者の最初のカルチャーショックである。

【追伸】
「ちゃんと言う」というだけで、遠回しのやさしい(?)表現は古今東西揃っているが。

 

…筆者、透佳(スミカ)

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